LOGIN第37話 三分後、世界からすべての名前が消える
空に浮かんだ銀色の数字は、百六十七から百六十六へ変わった。
一秒ごとに減っていく数字を見上げながら、俺は御厨が宣言した命令の意味を考えた。
声を奪い、名前を消す。
単に口から音が出なくなるだけなら、さきほど作った身振りや絵で補うことはできる。しかし、御厨は「名前」というものを、俺たちが普段使っている呼び名よりも広い意味で扱っている。
人が自分を自分だと認識するための境界。過去の記憶と現在の身体を、同じ一人の存在として結びつける意味。誰かを大切に思い、その相手をほかの誰でもない一人として呼ぶための印。
それらをすべて失えば、俺はリシアを見ても、愛する婚約者だと認識できなくなるかもしれない。フィーネは自分が俺たちの家族になったことを忘れ、アルベルトとアルトは別々の人間として生きることさえできなくなる。
新しい言葉を作る以前の問題だ。
俺たちは、自分が誰なのかという出発点まで奪われる。
「止める方法
第44話 俺の偽物が「助けに来るな」と言った布告文の末尾に描かれた、斜線入りの小さな円を見つめていると、言葉が誰にも通じなくなった夜の記憶が蘇った。円は同意を意味し、斜線を加えれば拒絶になる。言葉と本心が違うときには、文の最後へ壊れた円を描く。御厨に万象通訳を奪われた俺たちが、互いの意思を確かめるために作った、ひどく不格好で単純な印だった。その使い方を、カナタも知っている。『私は自らの意思により、新聖王の名を受け入れる』署名の上に並んだ言葉は、すべて嘘だ。カナタは俺の姿と記憶を利用して作られた存在だったが、最後には誰かの代用品として生きることを拒み、自分で選んだ名を持った。その彼が、御厨の代わりとなる聖王の座を望むはずがない。「戴冠式は、明日の正午だと言ったな」俺が確認すると、伝令の兵士は緊張した顔で頷いた。「はい。ただし、この布告が聖都から発送されたのは昨日の夜です。日付が変わっておりますので、正確には本日の正午となります」広場に設置された時鐘は、夜明けから一刻ほど過ぎたことを示していた。式まで残されているのは、五時間にも満たない。聖都までは、竜族の軍用飛竜を使っても半日はかかる。アレクシオやリシアが竜の姿になり、全速力で飛べば間に合う可能性はあるが、人を背負ったまま長距離を飛ぶことになる。途中で見つかれば、竜帝国による聖都襲撃と受け取られるだろう。「人間側の臨時連合は、この戴冠を認めているのか?」ロランは布告文に並んだ封蝋を調べながら、ゆっくりと首を横へ振った。「ここに押されているのは聖都議会と、聖都へ駐留する三つの騎士団の印だけです。各国の代表へ相談した形跡はありません。しかし、聖都は長年、人間諸国の信仰を束ねてきました。戴冠式を強行され、民衆が新聖王を認めてしまえば、国王たちも簡単には否定できなくなるでしょう」「本人の意思を無視した戴冠でもか」「民衆へ、その事実は伝えられません。布告だけを読めば、カナタ殿は自ら聖王になると申し出たように見えます。あなたと同じ姿を持ち、世界を救った者の記憶まで継いでいる
第43話 世界を救った翌朝、俺たちは結婚を決めた「世界から聖王と呼ばれるためではなく、私の隣で生きるために、私と結婚してくれますか」リシアの声は、始祖竜から分け与えられた新しい通訳の力を通して、まっすぐ俺の中へ届いた。聞き間違える余地はない。偽装婚約でも、竜帝国と人間諸国の関係を安定させるための政治的な婚姻でもなく、リシア・ヴァルドレイクという一人の女性が、如月遥人という一人の男へ結婚を申し込んでいる。ずっと望んでいたはずの言葉だった。それなのに、俺はすぐに返事ができなかった。広場へ集まった竜族の兵士たちが、固唾を呑んでこちらを見守っている。ロランや神崎だけでなく、母親であるガルディア、元婚約者候補のアレクシオ、始祖竜やフィーネまで、誰一人として目を逸らそうとしない。人前で返事をすることが恥ずかしいのではない。俺がここで結婚を受け入れれば、新聖王という名から逃れるためにリシアを選んだように見える。それが嫌だった。世界から与えられる役割を拒むため、別の役割へ逃げ込むのなら、結局は御厨と変わらない。自分が望んだのではなく、必要だったから選んだのだと言い訳する余地を残したまま、リシアの手を取ることになる。「ハルト」返事を待つリシアの指から、少しずつ力が抜けていった。俺が迷っている理由を、彼女は別の意味に受け取ったらしい。強い決意を宿していた瞳が揺らぎ、やがて自分から手を離そうとする。「申し訳ありません。いま、このような状況で尋ねるべきではありませんでした」「待ってくれ。断ろうとしてるわけじゃない」「それなら、なぜ黙っているのですか。結婚したいかどうかを尋ねられて、返事をするまでにこれほど考えなければならないのなら、それは少なくとも、迷わず望める答えではないのでしょう」リシアは冷静に話そうとしていたが、語尾がわずかに震えていた。魂語が聞こえなくてもわかる。傷つけた。俺は、答え方を慎重に考えることばかりに気を取られ、質問した側が沈黙をどう受け取るかまで考え
第42話 始祖竜を連れて帰ったら、皇帝まで跪いた「話し合ったあとで殴るという約束は、家庭内教育として正しいのか?」俺が恐る恐る尋ねると、リシアは右手に灯していた銀白の炎を消し、いかにも心外だという顔で眉を寄せた。「最初から殴るより、十分に話し合いを試みるだけ穏当でしょう。それに、お父様も止めなかったのですから、竜族と人間の双方から認められた方法だと解釈しています」「父さんは、できれば話し合いだけで解決してくれと言っていたと思うんだけどな」「できれば、という言葉には、できない場合も含まれます。ハルトが命を投げ出そうとしているとき、説得できるまで何時間も待っていたら手遅れになるでしょう。多少乱暴でも、まず止めてから続きを話すべきです」同意通訳によって言葉の意味が届くようになったのは嬉しいが、これまで表情から推測するしかなかったリシアの理屈が、想像していた以上に容赦のないものだったと判明してしまった。もっとも、聞こえなかったころも、俺の額を指で弾いたり、胸ぐらをつかんだり、実力行使に迷いがないことだけは十分に伝わっていたのだが。「兄さまは、すぐ自分を数に入れないから、それくらいでちょうどいいと思います」俺の腕へ抱きついたフィーネまで、リシアに味方した。「フィーネ、兄として一つだけ教えておく。意見が二対一になったからといって、多いほうが必ず正しいとは限らないんだ」「でも、兄さまと姉さまの意見が違うときは、だいたい姉さまのほうが正しいです」「誰がそんなことを教えたんだ」フィーネが視線を向けた先には、赤い髪へ積もった石の粉を払い落としているアレクシオがいた。「私ではない。だが、その点に限れば、少女の観察は正確だと思うぞ」「おまえまで加わるなよ」「世界が滅びかけている最中にも、自分だけ犠牲になろうとした男が、いまさら発言権の平等を主張するのか。厚かましいにもほどがある」アレクシオは鼻で笑ったが、俺とリシアが無事に戻ったことへ安堵しているのは隠し切れていなかった。以前の万象通訳なら、表面の言葉とは別に魂語が聞
第41話 父さんに「帰れない」と伝えなければならない「遥人、そこにいるのか」父の声が、四年分の距離を越えて届いた。耳で聞いただけなら、よく似た別人の声だと疑ったかもしれない。しかし、語尾をわずかに濁らせる話し方も、信じられないことを前にすると眉間を指で押さえる癖も、俺が知っている父そのものだった。「父さん」名前を呼んだ途端、それまで胸の奥へ押し込めていたものが一気に込み上げた。もっと落ち着いて話すつもりだった。心配をかけたことを謝り、自分が生きていると伝え、こちらで何があったのか順序立てて説明したかった。けれど、実際に口から出たのは、それだけだった。父さん。幼いころから何千回も呼んできた、ありふれた言葉だった。父は椅子を蹴るように立ち上がると、机へぶつかりながら亀裂の前まで歩いてきた。震える手が、二つの世界を隔てる銀色の膜へ触れる。俺も手を伸ばしたが、互いの掌が重なる直前で、冷たい光に遮られた。「本当に遥人なのか。おまえ、いままでどこにいたんだ。四年だぞ。警察にも行ったし、勤め先にも、友人にも、思いつく場所には全部連絡した。それでも誰も知らないと言うから、事故に巻き込まれたのか、それとも俺に何も言わずに消えたのか、毎日そんなことばかり考えていたんだぞ」「ごめん。何も言わずにいなくなったんじゃない。信じられないと思うけど、別の世界へ召喚されたんだ」「別の世界だろうが海の向こうだろうが、生きていたなら一度くらい連絡できただろう」父の声は怒っていた。再会できたことを喜び、涙を流しながら抱き合うような場面にはならなかった。四年間、何の手がかりもないまま待たされたのだから当然だ。事情を知らなかった父からすれば、俺は突然姿を消し、生きていることさえ伝えなかった親不孝な息子でしかない。「連絡する方法がなかった。俺だって、何度も帰ろうとしたんだ。でも、元の世界へつながる道が見つからなかった」「だったら、いま目の前にあるものは何だ。そこから帰ってこられるのか?」俺はすぐに答えられなかった。父の後
第40話 俺の名前は渡さない。お前の名前を一緒に探そう「では最初に、如月遥人という名を、私にくれ」俺と同じ顔をした始祖竜は、銀色の瞳を細めながら右手を差し出していた。差し出された掌には武器も術式も見えない。それでも触れてはいけないと、本能が警告している。御厨が始祖竜の名を奪い、その名前に結びついていた力と寿命を四百年間も利用したことを考えれば、ここで求められているのが自己紹介ではないことくらい、万象通訳を失った俺にも理解できた。「断る。俺の名前は、おまえには渡さない」俺が答えると、始祖竜は怒りも悲しみも浮かべず、ただ意味のわからないものを観察するように首を傾けた。「なぜだ。おまえは、私に選べと言った。選ぶためには、他者と自分を分ける名が必要なのだろう。私はおまえの名を選んだ。それなのに、なぜ拒む?」「名前を選べとは言ったけど、誰かの名前を奪えとは言ってない。俺の名前は俺のもので、おまえが欲しがったから渡せるような物じゃないんだ」「名は、物ではないのか?」「形はないけど、勝手に持っていかれたら困るという意味では、物より大事かもしれない」「おまえが名を失っても、身体は残る。記憶も残る。ならば、何が困る?」始祖竜の問いかけには悪意がなかった。俺の名前を奪えば俺が傷つくとわかっていながら、無理やり差し出せと迫っているわけではない。本当に、何が問題なのかわからないのだ。それだけに説明が難しかった。名前の意味など、これまで真剣に考えたことはない。生まれたときに父と母がつけ、物心がつく前から呼ばれていた。気に入っているのかと尋ねられても、ほかの名前で生きた経験がない以上、比べようがない。しかし、この世界へ召喚され、役立たずと呼ばれ、敵国の間者と疑われ、通訳として利用されるうちに、俺の名前を呼ぶ声が持つ意味は少しずつ変わっていった。父が呼ぶ「遥人」と、リシアが呼ぶ「ハルト」は、同じ名前であっても同じ響きではない。フィーネが兄と呼ぶとき、そこには血のつながりとは別の選択がある。御厨が俺を利用しようとして名前を口にするのと、ヴァルガンが呆れなが
第39話 始祖竜が、俺の声で目を覚ました「私は、誰だ?」地の底から響いた問いかけは、声の大きさに反して、ひどく頼りなかった。俺と同じ声だった。息の混じり方も、言葉の最後がわずかに低くなる癖も、自分では意識したことさえない特徴まで同じだった。しかし、それが自分の声ではないことだけは直感でわかった。口から出た音ではなく、胸の内側へ直接流し込まれた意味が、記憶の中にある俺の声を借りて形を得ている。崩れた床の下で開いた銀色の目は、宮殿の大広間が丸ごと収まるほど巨大だった。瞳孔を縁取る光がゆっくりと収縮するたび、始祖宮の壁に刻まれた古代文字が呼吸するように明滅し、その振動は足の裏から骨へ伝わってきた。俺たちは、竜の身体の上に宮殿を建てていたのではない。この宮殿そのものが、竜の眠りを封じる棺だったのだ。「答えるな」御厨が鋭く言った。先ほどまで死にかけていた男とは思えない声だったが、立ち上がろうとして膝をついた姿には、もう聖王の威厳など残っていない。ヴァルガンに後ろ手を拘束され、奪った力も偽りの若さも失った御厨は、息を切らしながら俺を見た。「少なくとも、軽々しく名を与えるな。あれは自分が何者なのかを思い出せない。だから外から与えられた答えを、そのまま自分の定義として取り込む。君が『始祖竜だ』と答えれば、あれは世界の始まりに君臨する竜として目覚める。『神だ』と答えれば、神に似た何かになろうとするだろう」「じゃあ、『ただの大きなトカゲです』と答えたら、少しはおとなしくなるのか」「その冗談が通じる相手かどうか、君が身をもって確かめたいのなら止めはしない。ただし、私を巻き込まずにやってくれ」「さっき助けてくれと言った人間が、もう他人を切り捨てる側へ戻るなよ」「助けを求めたからといって、急に善良な人間になれるわけではない。四百年分の性格は、数分では矯正できないんだ」あまりにも堂々とした開き直り方に腹が立ったが、御厨の言葉を無視できる状況でもなかった。リシアが俺たちの会話を理解できず、険しい顔で御厨へ何かを問いかける。御厨は一瞬だけ黙り込んだものの、